建設計画立案までの 諸活動並びに経緯
昭和42年10月 東京都内7大学有志17名によるテニアン島遺骨収集活動
「アジア、太平洋学生会 会長 西堀栄三郎」
昭和43年7月 拓殖大学学生20名によるマリアナ沖台風災害復旧活動
昭和44年2月 拓殖大学学生30名による災害復旧活動建設支援、サイパン島
バンザイクリフに「大東亜戦争戦没者慰霊碑」の建立、慰霊祭
昭和44年5月 サイパン市長、議長、テニアン市長が相次いで拓殖大学を訪問、
今後の協力問題等を話し合う
昭和44年6月 全関西磯釣連盟会長よりサイパン島の慰霊碑再建に関する提出
がなされる
昭和44年7月 サイパン島より青年代表来訪。団長サイパン市長
(慰霊碑再建の内諾を得る)
昭和44年10月 アジア太平洋学生会員国岡敏夫氏が現地に赴き現地側より
建設の承諾をとる
昭和44年11月 全関西磯釣連盟会長拓殖大学を訪問、慰霊碑再建の具体的内容
に関する意見調整が行われ、両者再確認する。
昭和45年2月 最終打合せのため隊長河田昌一郎がサイパンに赴き
最終打合せを行う。
太平洋之塔概要
建設場所 マリアナ群島バンザイクリフ
建設年月日 昭和45年(1970年)3月
敷地面積 400平方メートル
大像 高さ4メートル 鉄筋コンクリート
小像 高さ2.5メートル
総工費 390万円
碑銘 「太平洋之塔」
「DEVOTE YOURSELVES TO THE CREATION OF THRE PACIFIC
GLOBAL ERA」
親塔背面 「アジア太平洋新時代の創造と繁栄を祈願し戦没者の霊に捧げる」
建設者 拓殖大学太平洋之塔建設隊
隊員 隊長 河田昌一郎(現拓大一高校長) 長塩、町田、赤木、室伏、秋本、富田
内山、栄、伊従、中島、片岡、和田、高橋、片峰、上野、丸山、永井、大橋、
宮本。小山、今井勝巳
設計者 吉村主税「自由美術協会彫刻家」
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Saipanバンザイクリフ 太平洋之塔建設
第二次世界大戦後、世界は既に四半世紀が過ぎ混乱と繁栄の渦の中でやがて劇的な弐拾世紀の終演を迎えんとしております。私達は、好むと好まざるとにかかわらず、今後益々その激化が予測される苦難に立ち向かい、人類平和と、より高い繁栄を目指して努力しなければなりません。
とりわけ、日本をはじめとするアジア太平洋諸国の今日及び将来は大きな不安と希望を包含しながらダイナミックに世界の中に登場しその形成過程において偉大な役割を果たそうとしています。
しかし、私達がこのアジア太平洋新時代を希求すればするほど、この激しい時代の奔流を冷静に見詰めなければならない一つの厳粛な歴史的事実を再確認せざるを得ません。
それはとりもなおさず此のアジア太平洋地域に新しい時代の曙をもたらした太平洋戦争そのものであり、その為に流された幾多の参戦国の青年の鮮血であります。戦争という残虐かつ不合理な行為が人類にとって避けなければならない大罪悪であることはいうまでもありません。しかし、誰しも過去、現在の如何を問わず好んで戦争してはいないでありましょう。太平洋を舞台に戦わねばならなかったかっての日米両国は、一面それまでの大西洋(西欧)中心の世界文明の中に新しくアジア太平洋の手による普遍的な価値体系を創造するために相互にその優位性を競ったものであり、又参加した青年はその目的の為に純粋にこれに殉じたものであります。私達が、現在この繁栄にあるアジア太平洋を目にするとき、これらの歴史的意義を信じて散華した幾多の犠牲を無視することは許されないでしょう。
かっての青年の血に奔流した殉国の情が現代青年の中に建設の魂となってその姿を再現し、過去の尊い犠牲が常に今日の繁栄の礎石とならなければなりません。私達は、遅ればせながらこの様な希いをここに具現化することによって、今日まで忘れられ放置されてきた戦没者の魂をこの雄大な太平洋の一角に蘇らせ新時代の道標にせんとするものであります。
「太平洋はわれらの手で」The Asia &Pacific in our time 1070Vol3
太平洋之塔建立趣旨文